昭和49年01月21日 朝の御理解
御理解 第3節
「天地金乃神と申すことは、天地の間に氏子おっておかげを知らず、神仏の宮寺、氏子の家屋敷、みな神の地所、そのわけ知らず、方角日柄ばかり見て無礼いたし、前々の巡り合わせで難を受けおる。この度、生神金光大神を差し向け、願う氏子におかげを授け、理解申して聞かせ、末々まで繁盛いたすこと、氏子ありての神、神ありての氏子、上下立つようにいたす。」
天地の御恩恵の中にあって、生きとし生けるもの、その御恩恵に依って居る事を知らずに、見当違い、思い違い、考え違いの事ばかりをしておる。そこのところを取り上げて、指摘して云うておられるのは、方角日柄ばかり見てと、まぁこういう様な事も、天地の親神様の御恩恵の中にあって、そういうものがある筈もない。同時にまた、天地の親神様の御物であるものを、私有し、自分のものの様な思い違いをしておる事やらも、ここに指摘してあります。
そこで金光様の御信心させて頂きよりますと、一切が神様の御物だなと。仏教でこの世は仮の世と言う事を申しますそうですが、仮の世とは色々意味もあるでしょうけれども、天地の親神様から、一切を借りておると言う事。預かっておると言う事であって、自分のものは無い。そういう見解を教祖様は持っておられた。勿論天地の親神様からお知らせと受けられて、そこの処が分かられたのでもある。
方角日柄ばかり見て、成程今までは様々な信心もしてみえられたけれども、本当に方角日柄、それが本当だと思いこんでおるから、家を建てるのにも日柄を見て貰うたり、方位を見て貰うたり一時が万事に、それに従うて来ておったと言う事が間違いであった。成程、神様からお知らせを頂いて御理解を頂けば、御教へを頂けば頂く程、神様の御恩恵の中から、一歩でも外に出た者は無い。神様の懐の中にあるものなんだ。
それをこれが良いの悪いのと、天地にケチを付ける様な考えが間違っておった事を悟られた、または知られた。そこから自由自在な生き方と云うと、無茶苦茶な生き方と云うのではありません。何かこう縛られた様な行き方。今日は金神様が南の方にござると言や、南の方には行ってはいけない。金神を除けていかにゃいけないといった様な、実に窮屈な行き方をしたわけです。
そう言う様なものがそれこそスッキリと、カラッと無くなってしまう。そして皆がそういう事で窮屈な生活をしておると言う事だけではなくて、その事が天地に対して無礼いたしと言う所が、この御理解三節の一番素晴らしいとこです。しかもそれが難の元になっておると断言しておられます。先祖代々からの因縁があったり、昔々の処に罪の元があって、そして人間が罪の償いをせねばならん。そこに人間の難儀があると説いたり。成程それもあるかも知れない。
けれどもここん所が一度判らせて頂く時です。天地に対する御無礼そのものが、難儀の元になっておるのだと仰る。そこで例えばどういう前々の巡りで、難を受けておっても、私共はそこの所を詫びる気になれば、詫びれば許してやりたいのが親心じゃとも仰るし。又人間が幸せになって行く事のためには、わが心を愈々和賀心にして行く事。いわゆる自分の心我が心とは、自分の心を和賀心にしていく。和らぎ喜ぶ心にして行く精進をさせて頂くならば、是からのおかげはそれにあると申しております。
天地書付にそれがある。ここん所は今の様な風に、いつも聞いて頂きますね。けれどもここが矢張り御理解三節の一番大事な処だと思うんです。今日は私はもう一つ大変な事を、この御理解三節から感じとらせて頂いた。と云うのはです。末々まで繁盛いたす事氏子ありての神、神ありての氏子上下立つ様に致すと言う事。私は、特に上下立つように致す。神ありての氏子、氏子ありての神、神様と氏子が一緒に立ち行く様な生き方。この辺のとこもこんな風に、いつも聞いて貰うから皆さん分かっておられる。
天地の親神様が、人間氏子にかかって自分も助かりたい、そしてお前達も一緒に助かってくれと言うてある。お前達の助かりがなからなければ、神の助かりは無いんだという事は、お前達に寄らなければという事なんです。この神様は。人間の真心に寄りなさらなければ、神様ご自身も、助かられる事が出来ないのであると同時に、私共も又神様のおかげを頂かなければ、実を云うたらここ一寸動かれないのが私逹なんです。
そこで神様が、私どもの事を願って下さる。どうぞ信心しておかげを受けてくれよと云うのは、願いであると同時に頼みなんです。どうぞ。そこで私共が、信心させて貰うという事はどう言う事かと。ここにです願いの信心の素晴らしさを今日は感じます。例えば私共が分かりません、だから自分の不健康であるなら、健康になります様に。お金が無い人はどうぞお金のお繰り合わせを頂けますように。人間関係で難儀しておる人はどうぞ一つ円満なおかげを頂きます様にと云うて願う。
だから願っただけではいけない。願うからには、おかげの頂けれる受けものを作らなければならんと云うのが、お道の信心のおかげの一つの論法なんです。例えば十文の足袋を願うならばです、矢張り自分の足も、十文でなからなければいけないということです。自分の子供のごたる、こうまか七文か八文の足だと致しましょうか。それでどうぞ神様足袋が履きたい、十文の足袋がはきたい、どうぞお願いしますと云うても、おかげは頂けないと云うのです。
それにはまず自分の足の小さい事を思うて、十文になってそして十文のそれを願うならばおかげ頂けれる。そこをおかげの受け物と、こう云っておるわけであります。まずは受けものを作れ受けものを作れ。だからここまでは皆さんも、朝晩聞いておられる事ですけれども、今日はそうではない受け物はない力もない。けれども願わなければならないと言う事です。何故って神様が上下立つ様にと云うておられる。神様が氏子の事を願うて居られる。だから私共もまた、神様の事を願わなければならないと言う事です。
そりゃお前は力がないから、そげな事を願うたっちゃ出来んと云う事は無いて。親が子のことを願う子が親の事を願う、願い合いにせよと。是は親子の場合はそれを云うておられます。親子願い合い頼み合いをせよと仰っておられる。私は今日そこん所を気付かせて頂いた。こらぁ神様に一つ本気で願わなければ、これは力もありません。云うならばおかげの受け物もありません。けれども矢張り願わなければ居られんのが、親の事である。又神様とても氏子の事である。
そこに初めて上下立つように致すと云う、上下立ち行く様なおかげになって来るのです。そこで今日からいっちよ、何でんかんでんお願いしょうと云うのでは無くてですね。親の事は子が頼み、子の事は親が頼みでしょう。ですから親の事を願うという処を検討しなければいけない。そんなら親がですよ背中が痒かと云いよる、是が親の願いであるとするか。それで腹の方どん掻いてやる。是ではいけんでしょう。それこそ痒い処に手が届く様に、神様が背中が痒いと仰るならばです。
背中を掻かせて頂く事を願う。そこで云うならば、親の心が判らなければいけないと言う事になる。親の事は子が願い子の事は親が願い。昨日菊栄会でした。正月の印をしますから、来て下さいち云うから行きました。そしたら昨日はこちらに、御迷惑掛けんごとち云うて、洋酒を買うて来ちゃる。そして洋酒の肴も沢山買うて来てある。それでそれこそお世話になりました訳で御座いますけれども。私が真中に座って両端に正義先生と文男先生が座っておる。
前に三人横さんこうテ-ブルを囲んでからでございました。あれはどう言う事からだったでしょうか、私が文男さんと正義さんに云うのです。兎に角親の側に寄ろうごとなかごたる風です。それこそ触らぬ神に祟りなしちいうごたる風で、あんたどんがそういう考え方が間違うとる。側に行けば親先生がどうか云うから、出来るだけ離れよう離れようとしておる。今日もウイスキ-一本何ちゅうですかね、サントリ-のこう丸いとがありましょうがあれを買うて来とる。
こんならバタバタ終えちから、早う帰られるけんでちいうごたる風で、あんたどんが云うとるに違いなか。そういう考え方は浅い。私がこれからお酒をつけれと言うてから、結局夕べも遅うなりました訳ですけれどもね。触らぬ神に祟りなしちいうごたる考え方が間違い。それこそ親というものは、昨日の御理解じゃないけれども。乳を張らせて痛うて応えんでおるとじゃん。今度あれが来たなら吸うて貰う、呑んで貰うことが神の願いなんだ。それを側に寄ると又何か云いつけられどんすりゃと思うちから、逃げ散らかすごたる事ではいかんて。
それこそ触らぬ神に祟りなしちゅうごたる風な考え方をしておる。是では親の思いが分かったと云えないでしょうが。親の願いを聞いおるとは云えないでしょう。親の思いが分からんからです。親がどげん思うとるかその思いが分かって、その思いに応えると言う事が、金光様の御信心なんです。ここん処が上下立つ様に致すなんです。親は切に切に子供の事を思う。子供もまた切に切に思う。親の事は子が頼み、子の事は親が頼み、頼み合いをすると言う事。それには例えて云うならばです。
昨日私がウイスキ-を飲みたいとも何とも思うとらじゃった。それをウイスキ-を持って来てから、飲ませちからそげな事よりか、もっともっと大事な事が有るのだけれども、そこには触れようともしない。それこそ背中が痒かばのち云うと、腹ドン掻いてくれ寄る様なものなんです。どういう風な考え方をしとるとか。そういう上下立つような、おかげを頂くためには親が願っておるなら、子もまた願わなければならない。
その願いというものはですとても力はない受け物はない。けれども願わなければおれない。それが子供としては親の事であり、親としては子の事である。天地の親神様は同じ事。天地の親神様が私共に掛けて下さる願い思いというものを、私共が天地の親神様に、その願いを掛けなければならない、思いを掛けなければならない。憧念心を燃やさなければならない。そしてあれはほんにどう言う事でしたでしょうか。
昨日私はたまたま、茶室の前の処へ下りて水道を止めに行きました。そしたらてんでこう薮のごとなっとるです。此の頃でしたか末永先生が、毎日毎日山に行ってから、苔を沢山採ってきた。植えさえすればよかごとてんでどこにもここにも、植えちらけちからちょっと汚らしゅうなってから、あげんスキッとしとった前の庭が、様んなかごとなってしもとるです。と云うて末永先生がです。
いっちょこげん様ねぇごとしゅうと思うてした事じゃなか。親先生が喜びなさるごと、兎に角庭を綺麗にしよう。ただ苔を植えさえすれば、先生が喜びなさるとこう思うとった。それを危ねぇ事で、客殿の大きい石の処にも、ずっと植えてしよったけん、私がそれだけは止めた。それはそん時にだからまぁまぁ、あそこだけは助かったけれども、さぁ他ん処は全部植え散らけぇちしもうちから、ちょいとしてどうにも出来んごとねぇっしもうとる。ここん庭ば様ねぇごとしようと思うてしたっじゃないです。
それも真心込めてしたっじゃろうけれどもです。よぅと、私の心が分かっておらなかった訳です。折角させて頂いた事が、却って結果においては、困った結果になる様な事ではいけない所に、本当に親の心が分からなければ、やり損なうと言う事です。是は皆さん私と皆さんの間の事を、親先生と云い信心の上の親子と思うから、それに例えて云いよるけれども、これは私と皆さんの事じゃないんです。
実際は神様と私共の事を云ってる訳です。そこで神様が頭が痒かというなら、頭を掻かせて頂ける為には、神様の声を聞かなきゃならん、神様の心が分からなきゃならん。そこに初めてソコソコと言うとこになって来るとじゃん。そしてそこが分かって、願わなければならないと言う事です。例えば和賀心時代を創るという様なスロ-ガンのもとに、合楽は信心を進めておる。その具体的な内容として五つの願いというものが打ち出された。そういう大きな運動に参画させて貰う。
参加させて貰う為には先ず私共に力が要る。私共が先ずおかげを頂かにゃならん。そこで五つの願いを。だから五つの願いという、是はどんなに力がなくっても、受け物がなくっても我武者羅に、願いに願い抜いて行かなきゃいけない願いなんです。何故ってそれは神様の願いなのだから。今日は願いと言う事をです。矢張り受け物が無からなければ頂けないおかげと受け物は無くても、おかげの受けられる願いとがあると言う事。
合楽教会大発展、こういう願いは、とても私どんがごたるもんが願うたっちゃ、神様は、聞いては下さるめえてん何てんちいう様な考え方を、まずは捨てなければいけない。合楽教会大発展という事が、神意であり、神の心であると云うことが分かったら、どげん力らが無かったちゃ願わにやいけない。これは教会だけの事じゃない。五つの願いだけの事じゃない。隣の人が、難儀をしておる。
その一言を本気で願わせて頂けれると言う事。是なんかは神様の願いですから、神様は力は無くてもおかげ下さると思うです。皆さん体験があるでしょう。信心の無い人達のお取次ぎを頂いてから、やっぱりどうでも助かって貰いたいち云うと助かるでしょう。自分はおかげ頂かんでもそういう願いは、神様は聞き届けて下さるです本気で願うと。相手は願うて貰いよる事も知らん。けれどもおかげを頂く。
是は神様のそれが願いなのだからです。この辺の処を私自身もそうでしたけど、是は力が出来なければ人のこつやら、願われんと思うておった。合楽教会大発展とか五つの願いとかと。やはりそげなこつよりか受け物を先頂かにゃん、力を先に頂かんならんと、こう思うておった。けれども上下立つよう、神様が私共の事を願うて下さるなら、私共も願わなければならんと言う事を、今日私は分からせて頂いた。神様の願いだけじゃいかん。神様が願うて下さるなら、私共も神様のお心が安らぎなさるようにです。
お喜び下さるようにその願いというものを分からせて貰うて、神様の願いを成就するように願うて行かなきゃいけん。然もこれはかきくどく願う事であります。まぁだ身近な所に力はなくても、願ってよいいや願わなければならない事が沢山ある様です。願いそしておかげの受け物、成程おかげの受け物は無くっても、もうおかげを受けますよね。そこんところはここにも云うておられる。
今般、生神金光大神を差し向け、願う氏子におかげを授け、理解申して聞かせと仰っておられる。今般生神金光大神を差し向けて、願う氏子におかげを授け。これは願わなければならないと思うて願うのじゃない。自分が苦しいから願いよるという願いもです。けれども、そういう氏子に、おかげを授けと仰っておられるから、信心が分かっていない、まあだ、ただ苦しいからお参りをしてきておる。一生懸命お願いすると、おかげを頂くという、そういう願いも有ります。
けども段々分かってきてはぁこりゃ、金光様の御信心ちゃ心を改めるより他にはなか、本気で本心の玉を研く以外にはなか、改まる以外にはなか。そして信心を熱心に進めさせて頂く以外はなかという風に分かる訳です。それが皆さんの処の信心じゃないかとこう思うです。だから私はそういう風にばかり思っておったのにです。上下立つように致すという神様の願いと云うものがです。神様が私共を願うて下さってある、その思いをこちらも判らせてもろうて、こちらが今度は神様のことを願うと言う事。
神様の事を願うと言う事は、隣りに病人さんが出来ておられるとば、一生懸命に願う事は是は神様の願いなんです。だから神様がお喜び頂ける事の為の願いなんです。力は無いけれども、願わなきゃいけない。それを、合楽教会の信奉者が、こぞって皆が一丸となって、願わなければならんのがです、和賀心時代を自分の心の中から、家庭の中から自分の周辺に拡げて行こう。そういう願い。同時に内容として五つの願いというものを、本気で願わなければならない。
だから今日は受け物は無いけれども、力は無いけれども願って頂くおかげの事と、願うからにはこちらもそれだけの引き当を作らせて頂く事に精進させて貰うと云う願い方と、又何にも判らんなりに、願う氏子におかげを授けと仰るから、ただお願いだけしておかげを頂くと云う、そういう願いも有るけれども、その次には理解申して聞かせと仰っておられます。だから初めてお参りをする人達には、あなたの願いはお取次ぎさせて貰うから、まず、天津祝詞を覚えなさい。一つ大祓いを覚えなさい。
と簡単な事から云うわけなんです。そすと素直にそれを聞いて先生覚えました。やっぱ黙って人に物云うように、頼めばよかけれども、大祓いのいっちょも上げて天津祝詞の一つも覚えて、それを繰り返し上げさせて頂いて、心が何とはなしに落ち着こうが清まろうが。その清まった心で又次の願いをしなければいけない。そこから清まった心に又次々と、こうあらねばいけない、あぁあらなければいけないと言う教えを頂いていく訳なんです。そこん所が理解を申して聞かせとこう仰っておられると思う。
末々までも繁盛致す事氏子ありての神、神ありての氏子と。そこで私共、神様あっての私共だと言う事を、よく言葉に出して言う事なんです。是は天地の親神様が神様の立場で、氏子を先に言うてござる。氏子有っての神だとこう云うて居られる。そこで私共もそうですよ、私共が居っての神様ですよと言う風な、頂き方をせずに本当に神様有って、私が有るんですと云う、神様有っての氏子と言う事を云うて来ましたけれど、そりゃ云うて来たばかりで、願わなければならんという事を気が付かなかった。
その様にまで云うて下さるのだから、その様な思いで祈っておって下さるのであるから、願いを懸けておられるのであるから、私共も又神様有って私共と云う、神様を上の方に置くのですから、その神様の手にもならせて貰おう、足にもならせて貰おう。その神様の思いも、又判らせて頂いて、思いに添わせて頂こう。その思いの中には沢山例えて申しますと、隣に難儀な人が居ると言うなら、そういう事からまでもそれに入って来る、神の願いに入って来る。
合楽教会を中心にすると、合楽教会大発展であり、和賀心時代を創るであり五つの願いを内容として、おかげを頂いて行くと言う事にもなる。今日は氏子上下立つように致すという処から、是は本当に上下立つように、おかげを頂く為にはです。神様が私共の事を、一生懸命に願うて下さるなら、私共も神様の事を一生懸命に、願わなければならないという事を聞いて頂いた。唯願うというてもです。どうぞ神様の御悲願が成就します様に、神様の神願が成就します様にと云うただけでは、願いにはならない。
それを具体的な処からです、まず自分の身近な処からです、神様の願いを的確に判らせて頂いて、神様がここが痒いと仰るならば、その痒いと仰る処を掻かせて頂くという心。親先生が菊栄会今日は一杯、親先生が俺達と一緒に飲もうごとあんなさるとじゃろう。本当に私が飲みたいならば、それは本当に痒い所に手が届いたんですけれども。実際言うたらいっちょん飲もうごとなかったです昨日は。
ほんな事だからそれで、親先生が喜んでおると思うておると、はぁ親孝行が出来たと思うておると、是は大変な間違いである事が判るでしょうが。それが親の心が判らんから、親の傍に寄らないから、触らぬ神に祟りなしというごたる風で、離れ散らけぇとるから判らんのです。解ってそこを痒いというなら、そこを掻かして貰うと云う時に、始めてです願った事になるのです。
只神願成就、神願成就と云うて、こつだけを云うた処でそれは願いにはならない。神様の心が判って然も些細な事からでも、神様の思いを判らせて貰う。それを信心では悟りと言う。神様の願いを悟らせて貰うて、それに応える信心。是は私が昨日の菊栄会の、私も飲もうごとなかったばってん、折角じゃけんで飲んでしもうた。そんなら菊栄会の連中もです、誰も飲みたいと思うて飲んだ者は 一人りもなかったと。
昨日私は思いました。それは渋々漸く一本片ずいた。そして私がお神酒をつけてきたとなんかは、愈々飲もうごとなかっただろうけれども、これは私に付き合うて飲んでしもうた。こんな苦しい事が有るでしょうか。お金を使うて、時間は遅うまで夜更かしして、そして親も飲もうごとない、子も飲もうごとないもんば、飲まんにゃんちゃこげん苦しい事はないです。是はほんな事そうでしょうが。
菊栄会の方は誰も飲みたいという者を感じなかったです。私自身も飲みたくなかった。本当に菊栄会の方達はここん所を、菊栄会の方達に限った事はないけれども。ひとつ本当に親の願いというものを、的確に判らせて貰うて、そこん処を願うていくという信心になったらです。段々本当に願う事になったら、離れておっても段々願いの傍に、そこじゃなかばい、そうこうしている内にそこそ事云う処が判って来る。
それをしようとしないで、おかげの頂ける筈がない。今日はどうでも上下立つようにと仰る、そういう願いを受けて、私共も立たせて貰はなければならない。神の願いを受けて私共もそれを願っていかなきゃならない。それが本当の意味での、上下立つようなおかげになってくるのじゃないかと思うんです。今日は願いの様々とでも申しましょうか。そういう意味で、この御理解三節を聞いて頂きました。
どうぞ。